母が逝ってから、いろんな事を考えて暮らしています。
中学で家を離れ寮に入った私は、母とゆっくり会話した事がありませんでした。
84才で入院した母は、年中無休のお店を閉めて仕事を離れ、私は仕事を休み、「こんなに、ゆっくり話したのは、初めてだね。」 と、病室で母に言われました。
いつか、一緒に旅行出来る日もくるよね。 と、長い間信じていた夢は、結局かないませんでした。
母は時折、問屋の旅行や、お寺の法要旅行に、行っていた様です。 母の旅行時は、父がお店番で留守番なので、2人で出かける事はまれだったと思います。 旅の話をする母は、かなりいろんな場所に出かけていて、自慢そうでした。
そんな楽しい思い出を聞くのは、私にとって、とても嬉しく幸せな気持ちでした。
・・・大好きな人が幸せなのは、自分も幸せになれることなんですね。
長い間、毎日休みなく働いて、私達姉妹を学校に行かせてくれ、それはたいへんなことだったと思います。 登校拒否で問題児だった自分は、一生懸命働いて両親の支えに答えたい、いつか母が自慢できるような娘になりたいと、頑張っていました。
・・・でも、私が楽しく幸せに暮らしている事が、母の幸せだったんですね。
自分が病気になったら、仕事はきっぱりやめて、旅行したり好きな事をして、楽しく過ごそう。 と考えていました。・・・今を後悔しない生き方が、日常の中で普通に死んでいけるのではないか。 それはとても心安らかで自然な事ではないか、と思えるようになりました。
5月16日、木曜日の夜。
父が駆けつけてから家族が揃い、みんなまんじりともしない夜を過ごしました。
口を傷つけてしまうので酸素吸入の管を外した母は、はあはあと口から呼吸していて、苦しそうでした。 本当に、死んでしまうのでしょうか?
お蒲団をレンタルして、待機できる6畳の和室をお借りして、父に休んでもらいました。 みんな眠れなく、母の側に座っていました。
5月17日、金曜日の朝が来ても、母は生きていました。
熱はありましたが、酸素も脈も安定していました。 はあはあと、息をしていました。
朝、妹と少し嫌な会話があり、病室を抜け出して外を歩きました。
帰ってきて、病室で母と2人向き合うと、涙が止まらなくなってきました。
涙がどんどん出てきて、ボロボロこぼれて、わーわー泣いてしまいました。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」 わーんわーん 「淋しいから、逝かないでー。」 わーんわーん 「逝っちゃ嫌だ。 寂しいよー。」 わーんわーん 「おかあさん。 おかあさん。」 わーんわーん・・・と、泣き叫んで取り乱していたら、頭がくらくらしてきて、熱がどんどん上がって、息が出来なくなってきて、それでも止まらなくて、
と、そこに姉が入ってきました。
「泣いちゃだめだよ。」「笑って、見送ってあげないと。」と、姉。
・・・笑う事なんか、出来る訳ないじゃない、涙ぼろぼろ。 気が遠くなりそうになったので、部屋の隅でしゃがんでいました。
「普通、あごがさがってきてから、24時間と言われています。」 と、先生。
母は、ずっと頑張っていました。 夕方になっても、息をしていました。
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お母様との別れが近づくと思うと、取り乱すのは当たり前だと思います。
私も何度となく取り乱しました。診察で腹水がたまっているとわかったときや、何度も主治医に病室前の廊下てわ「もうダメです」と言われたとき、主治医が去ってから廊下で兄に携帯で電話をかけて、電話口の兄と2人、泣き崩れたのを思い出します。
無念ですよね。悔しいですよね。。。
私も、読みながらまた泣いてしまいました。
自分自身、気持ちの空虚感を埋めれるのはいつになるんでしょうかね。。
母に会いたいです。
いつも優しく、励まされています。
ありがとうございます。
年だけたくさんとって、大人になれないです。